栗山公園:歴史調査03

栗山公園の歴史調査の第3弾です。

東京薬科大学の史料館の90年史から

東京薬科大のグラウンドから薬用植物園までの経緯

史料館で拝見した東京薬科大学の90年史に記載されている情報から、小金井校地として、栗山公園のあった場所は、昭和5年にグランドを購入しようとして選定されたいくつかの場所の一つだったようです。土地の選定は、昭和4年から、薬科大の前身のひとつ上野女子薬学校の初代校長だった、池口理事長や星野、小西理事が主体となって選定を行ったと記載されています。

この場所は、小金井新田75番地一帯の約五千坪で第一候補とされました。半年間調査され、当時の坪当たりの価格7円79銭で昭和5年10月14日に登記、購入されたようです。グランド開きには、当時の小金井神社の星野甲子三郎社掌が祭主として参加されました。当時、小金井球場と呼ばれたところからも、野球などのグランドとして利用されたようです。このグランド用途が薬用植物園に転用されたのは、昭和24年の東京薬科大学設立にむけて、昭和22年に校務分掌規程を改正して、薬園科を新設。その時期より薬用植物を栽培する目的に使用することに用途変更されました。

また、戦後のこの周辺が全てそうであったようにこの場所も昭和22年10月3日公布の「自作農創設特別処置法」により買収の対象となったようです。しかし、都知事に同法第5条第3号による指定を申請することでなんとか、昭和23年に解除となり、正式に薬草園として安定利用されるようになりました。

この薬用植物園は、当時の薬学校の教育内容としては、薬剤師の育成の実習用だったように思われますが、その将来計画としては、薬用植物園と同時に生薬処置所を建て、医薬品を作るとされていたようです。東京農工大学の敷地に隣接したこの地は、その後の八王子キャンパス移転でも東京農工大学のフィールドマークとの隣接という関係をみると浅からぬものがあったようですが、それについての記述はありませんでした。薬用植物園の当時写真を学務企画室より、お借りしましたので、以下にご紹介します。昭和33年よりこの近所に移り住んだ私の幼少期の記憶にもこの門の風景が焼き付いています。

薬用植物園の正門(農工大通りに面した南西角)
薬用植物園内の薬草畑

90年史にある当時の東京薬科大学薬用植物学の教授は、寺阪正信教授(明治29年生まれ)と東京女子医専薬局長の大村重光教授(明治32年生まれ)だったようです。この方々の書かれたものにこの植物園の話があれば、是非見たいものです。もちろん、当初利用された球場のエピソードなども見つけてみたいものです。

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