1950年代から、考える

「原子力時代における哲学」(國分功一郎著)から、考えていきます。最初は、1950年代の思想を紐解きます。まず、國分さんは、1950年代の二人の思想家・哲学者(ギュンター・アンダース氏とアンダース氏の伴侶でもあったハンナ・アレント氏)を第一講で取り上げています。その前に國分氏の考え方を以下に紹介しています。

<同書よりの転載部分、P21より>

(前略)
僕の率直な気持ちとしては、一方で、原子力発電がコスト高であり経済的に割に合わないということさえわかれば、原発に関する議論はもう答えが出たも同然ではないかという気持ちがあります。
(中略)
これだけだと、コストが安く済むならば原子力発電をしていいのかという話にもなりかねないからです。それは違うだろうと僕は思っています。核のゴミをこの先どうすればいいのかも決まっていないし、再び事故が起こったら本当に取り返しのつかないことになる。というより、3.11で既に取り返しのつかないことが起きてしまった。ならば、コスト計算と合わせて、それに並んで、それとは異なる仕方ででも、原子力を考えていかなければならないのではないか。もしかしたら、そこには哲学にも取り組める、いや、哲学こそが取り組まねばならない課題があるかもしれない。そういうことを少しずつ考えるようになりました。

<転載、以上>

そうした考えで、新たに嘗ての1950年代の哲学を指向しているのです。アンダースは、「核兵器の問題を哲学的に論じた非常に稀な人」だとしています。次の転載部分でのアンダースの哲学を紹介しておられます。

ギュンター・アンダース「核兵器は手段ではない」

1956年に刊行された『時代おくれの人間』に、核兵器を哲学的に、そして詳細に分析した論文が収録されており、「核兵器とアプカリプス不感症の根源」という論文です。以下の論文に対する國分氏の説もご覧ください。

<転載部分>

このタイトルにアンダースの言いたいことが詰め込まれています。すなわち、核兵器というのは「アポカリプス」、世界の終わりをもたらすものであるのに、それに対して我々は「不感症」になってしまっているのではないか、ということです。(中略)ここでは彼の根本的なテーゼを引き出すことにとどめましょう。それは「核兵器は手段ではない」というのものです。どうゆうことか。少し引用してみましょう。

<転載、以上>

以下の引用を取り上げます。アンダースの書き方は非常に誌的だと指摘しています。

<転載部分>

〔核兵器〕絶対的に大きすぎる。
「絶対的に大きすぎる」とはどういう意味か。
核兵器が投下されれば、その最小限度の効果でも、人間によって設定されるどれほど大きな(政治的、軍事的)目的よりも大きく、「効果が目的を超え(effectus transcendit finem)」て、効果はいわゆる目的より大きいばかりか、一切の目的設定を疑わしいものとすると予測され、手段の今後の使用を疑わしいものとし、手段ー目的の原理そのものを消し去るということだ。
こういうものを「手段」と呼ぶのはばかげているだろう。

<転載、以上>

さらに國分さんは、解説を以下のようにしています。

<転載部分>

アンダースが言っているのは難しい事ではありません。手段というのは目的を達成するための媒介(メディエーション)であり、人間は手段という媒介を通じて目的を達成する。だけれども核兵器の場合は、手段と言うにはあまりにも強力すぎて、目的だろうと何だろうと全てを破壊してしまうから手段にはならない、というわけです。これがアンダースの根本的な主張です。つまりアンダースは、核兵器とそれ以外の兵器、いわゆる通常兵器とのあいだには絶対的な差があると考えていることになります。たとえば、マシンガンは手段になるけれども、核兵器は手段にならないというふうに彼は考えているわけです。
この手段と目的についての考え方、そして手段とは媒介であるという見方は、ヘーゲル哲学に影響を受けていると思います。

<転載、以上>

そうして、さらに「アンダースの視界に入らなかったもの」として、以下のように述べています。

<連載部分>

アンダースという人は、反核運動のリーダー的存在でした。しかも、核について哲学的に考察した、非常に数少ない人です。けれどもそんな人物が、1950年代の時点では核兵器の話しかしていない。どうゆうことかというと、核兵器については極端に思弁的な議論をしているにもかかわらず、彼の論文には原子力発電の話が全くでてこないのです。これが僕の最大の疑問です。

<連載、以上>

それにつけて、次に取り上げたいのが、アンダースのパートナーだったハンナ・アレントです。残念ながら、この「アレントのモチーフのひとつは、マルクス批判でしたから、左翼的な雰囲気の強かった日本の思想界ではそんなに人気がでなかったから」(國分氏の記述)事情もあったようですが、でも90年代には、盛んに『全体主義の起源』『イェルサレムのアイヒマン』などが読まれていたのです。しかし、ここでは、國分さんは、『人間の条件』(1958年刊行)という本を取り上げています。

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簡単にアレントの略歴を紹介されますが、その時代背景は、かなり重要です。
1906年ハノーファー近郊のリンデン生まれで、マールブルク大学在籍時にハイデッガーに出会います。そのおかげで哲学に情熱を燃やし、猛烈に勉強します。さらにフライブルク大学でフッサールに、ハイデルベルク大学では、ヤスパースに師事します。この頃、1920年の後半でシオニズムに目覚めます。その後、1929年にアンダースと結婚して一緒にパリに逃げますが、37年に離婚。40年には、アメリカに亡命します。そういったアレントも亡命ユダヤ系知識人の一人となたのです。この『人間の条件』(1958年刊行)は、1956年にシカゴ大学で行われた一連の講義がもとになっているようです。

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ハンナ・アレントは、「科学主義と科学批判」を哲学的に唱えています。そして、原子力にいたります。以下の文を「人間の条件」で取り上げています。

「人間の条件」における原子力

<転載部分>

今日、人間は、物理学の分野でいろいろなことをしている。たとえば、普通、太陽にだけ見られるエネルギー過程を解放し、宇宙進化の過程を試験管の中で始め、望遠鏡の助けを借りて宇宙空間に浸透し、二十億光年あるいは六十億光年の限界に迫り、地上の自然界では知られていないエネルギーを生産しコントロールする機械を作り、原子力加速装置で光速に近いスピードを得、自然には発見されない元素を作り、宇宙放射線の使用によって作り出される放射能微粒子を地球上にばらまいている、等々。しかし、私たちが物理学でなにをしようと、要するに、私たちは、アルキメデスが立ちたいと願った地点に実際に立っているわけではないし、依然として人間の条件によって地球に拘束されている。しかし、私たちは、地球の上に立ち、地球の自然の内部にいながら、地球を地球の外のアルキメデスの点から、自由に扱う方法を発見したのである。そしてあえて自然の生命過程を危険に陥れてまで、地球を自然界とは無縁な宇宙の力に曝しているのである。(421P)

<転載、以上>

國分氏は、アレントの重要な位置づけを述べています。「近代の始祖としてのガリレオ」や「観照的生活と活動的生活」「疎外論」「オートメーションと原子力」などを是非、読み込んでください。最後には、1950年代を取りまとめる意味で、「疎外論」を國分氏は、以下のように述べられています。

<転載部分>

また、1950年代が、疎外論ブームの時代であったことも念頭に置いておく必要があるとおもいます。ブームの発端はマルクスでした。マルクスの思想は40年代ぐらいまでは一種の科学として理解されていました。何をも寄せつけない強力な客観主義です。マルクス主義の唯物史観は歴史の法則を明らかにした客観的な科学である。だから歴史は必ずこの法則に沿って進んでいく。つまり資本主義は間違いなく崩壊し、共産主義の世界が訪れる。ゴリゴリの共産主義者たちはそう信じていました。これは今だと想像しづらいんですが、スターリンを賛美していた人たちなどはそういう感じがあったわけです。
しかし、これに対する批判というか疑問が起こります。そんな法則ですべてが説明できるはずがない、そもそもいつまで経っても資本主義は崩壊しないではないか、とうわけです。そんな折、次第に、マルクスが若い頃に書いていた「経済哲学草稿」と呼ばれる原稿が注目を集めるようになりました(この草稿自体は1932年に『マルクス・エンゲルス全集』で初めて公表されました)。

そこには、それまでの客観主義的マスクス理解とは正反対のマルクスの姿がありました。人間主体や人間の主体性を大事にする考えが書かれていたからです。それがマルクスの疎外論として理解されました。劣悪な工場労働の中で労働者は体も変形して奇形になり、完全に機械の部品にされている。つまり、人間が自らの力を発揮できないような状態へと疎外されているというわけです。共産党のゴリゴリの科学主義・客観主義に嫌気がさしていた人々が、ここに注目したわけです。マルクスは決して客観主義ではない、と。しかも時代的には実存主義もまた流行していました。実存主義は疎外論と親和性の高い思想でした。
こう考えていくと、1950年代というのは複雑な時代であったように思われます。科学技術が人々の心をつかんで離さず、「人間の条件を超えたい」という気持ちすら促進していた。しかし、同時に、疎外論もまた社会に広く浸透していた。つまり、現代社会の在り方が強く批判されていた。アレントの近代に始まり勝利感と絶望を見ました。これはもしかしたら、彼女が見た1950年代の世界の姿だったのかもしれません。この意味でも、「1950年代の思想」を描き出すにあたって、アレントの仕事は避けて通ることはできないでしょう。

<転載、以上>

<この項 了・1950年代からの日本と世界の動きへ>

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